| 田上義也(たのうえ・よしや)。大正から昭和にかけて北海道を拠点に活躍した建築家。特徴的な要素を持つ、北海道の気候風土に根ざした洋風建築を数多く残した。彼の経歴の中で必ず語られるのは、建築家フランク・ロイド・ライトへの師事、そして、宣教師ジョン・バチェラーとの出会い。いかにして田上は北へ導かれたのだろうか。 大正12年9月1日、関東大震災発生。この日はまた、東京・帝国ホテルの竣工披露パーティが行われた日でもあった。すでにホテル営業は始まっていたが、建物は地震に耐え、このことにより、帝国ホテルはライトの天才を証する伝説的建築となって行く。 後年、坂牛邸、上田邸の建築を田上に発注することになる小樽新聞記者・坂牛直太郎も、この震災直後の帝国ホテルを目撃したひとりであった。彼は東京大学在学時に当時建設中だった帝国ホテルも見ており、その建物が震災の瓦礫の中に残っている姿にはいたく感動を受けたという。フランク・ロイド・ライトの名は彼の心の中にしっかりと刻まれた。 田上義也が北海道へ渡ったのは、その年の11月。すでにライトは前年に離日しており、田上にも独り立ちの時期が来ていたのかもしれない。そして、田上に二度目の幸運が起こる。 |
| ふと気がつくと私の手の上に大きなデリシャスが乗っている。驚いて顔を上げるとくだんの老人がニコニコと笑いながら『神様のお授けものです』という。この老人がジョン・バチェラー博士である。博士はかたわらにあるバイオリンのケースを見て、やおら私に手を出させ指を丹念につまんでみて、皮肉に、しかもユーモラスな表情で『ハハァ!あまりうまくないな』と笑った。(中略) 『小樽はコマーシャルの町だからあなたには不向きである。札幌にいらっしゃい』といって熱心にすすめてくれた。 |
| 初めての北海道行きの汽車の中でバチェラーとの出会い。札幌のバチェラー邸への奇遇。豊平館のクリスマスパーティーでのバイオリン独奏。そして、この話は翌年のバチェラー学園の設計にまで行き着いてしまう。かくまで劇的、華麗な北海道デビューを果たした人をあまり知らない。 |
| バチェラー学園竣工の翌年、大正14年4月26、27の両日、田上は「田上義也建築作品展覧会」を札幌時計台で開催する。建築家・田上義也の存在を世に問う意欲的な試みだった。この建築展中、ひときわ大きく人の目を引いたのが小樽市富岡に建つ高田治作邸の設計図である。 |
| あはれかの眉の秀でし少年よ 弟と呼べば はつかに笑みしが 高田治作。明治24年の小樽生まれ。小樽日報社記者時代、花園町の家に啄木を友人藤田南洋とともに訪ねていった少年としてよく知られている。号は「紅果」。初代小樽啄木会会長。もしも高田紅果が「在りし日の啄木」を書き残さなかったら、明治40〜41年の北海道漂泊の啄木像はかなりちがったものになっていたことだろう。 紅果は保険代理業の奥田商会に勤めるかたわら、小樽の文芸雑誌「海鳥」「白夜」「群像」「クラルテ」等に投稿し、また、啄木の家族の間借り生活にヒントを得た作品「借間」を当時の「秀才文壇」に投じ徳田秋声の選で入選したりもしている。 また、大正半ばに発足した「啓明会」という文化人の啓蒙的なグループの幹事も努めた。約十年くらい続いたというこの会には島武郎、早川三代治、木田金次郎らの後志グループが大きく関わっており、高田と木田はともに小樽啓明会員を主力とする美術グループ「緑人社」メンバーとしても活動していた。 「田上義也と札幌モダン」の著者・井内佳津恵氏は、田上義也と高田紅果の出合いには、「田上義也建築作品展覧会」の時にも自らの日本画17点を賛助出品して応援した画家・橋浦泰雄の存在を介した有島人脈による可能性が高いのではないだろうかと言っている。 |
| 田上の高田邸設計図に見える「アトリエ」という部屋は、高田の画室であったのかも知れない。田上には最初期の住宅設計として忘れがたいものであったようで、雑誌『さとぽろ』で「日の光にめぐまれし応接の窓に映る海面の帆影は/シンドバードの船のモチーブと波しぶき」と回想している。 |
| 七時沢田君と共に、有志発起の視察隊歓迎会に望む。会場は喜望楼。来会者約八十名に上り、仲々盛会であつた。樽新の坂牛君、タイムスの小川君、道庁属にして詩人夜雨君の兄なる横瀬君らに逢ふ。市ちやんと鶤寅の小奴は仲々の大モテで、随分と面白い演劇もあつた。帰りに一行の宿なる三浦屋を訪ねて、小川黙淵君と築港問題について談る。 |
| この「視察隊」とは「北海道鉄道操業視察隊」。当時、ようやく鉄道路線が全通し、海路に頼らずとも道内移動が可能になった北海道。しかし、路線の運行はまだまだ不安定であり、特に冬期間の貨物停滞などが大きな問題となっていた。このため、北海道鉄道管理局は、道庁役人、函館・札幌・小樽の主要三都市の商工会議所役員などを招待し、また、PR用として道内新聞雑誌の記者をも同行させ、道内の幹線全部を一巡する「視察隊」を組織して鉄道側の苦心の実況を見てもらおうということになったのである。 その視察隊が釧路入りしたのが明治40年の2月21日。報道関係はどこも編集長格の重鎮をこの視察隊に投入している。当然、釧路新聞主筆の日景安太郎は別の視察隊に名を連ねて旭川方面に出ているため、番頭格(事実上の編集長)の啄木がこの釧路入りした視察隊を出迎える形になったのであろうか。そして、啄木日記に見える「樽新の坂牛君」とは、当時、北海道の新聞界を「北海タイムス」とともに二分していたもう一方の雄「小樽新聞」の名物記者・坂牛祐直なのである。 前述した坂牛直太郎は、この坂牛祐直の長男。明治24年盛岡市に生まれる。明治34年2月、小樽新聞に入社した父祐直と共に小樽区に来住。量徳小学校に転入した。同年7月、祐直が小樽新聞札幌支社長となったため札幌に移転した。この札幌の住居はバチェラー邸、バチェラー学園の近くにあり、祐直がクリスチャンであったことからもジョン・バチェラーとの交流は当然あったと考えられる。直太郎は明治40年、札幌聖公会にてバチェラー師より洗札を受けた。 大正6年、東大法学部卒業後、三井物産に入社。小樽支店に勤務する。そして大正8年、小樽新聞社社長・上田重良の一人娘・上田すま子と結婚する。おそらく、ここから直太郎と小樽新聞の関係も深まって行ったのだろう。大正11年、直太郎は三井物産を退社。小樽新聞社に入社する。関東大震災(大正12年)の東京を取材したのは、この記者時代にあたる。その後13年に同社取締役に就任し、上田重良没後に社長となった未亡人・寿久を補佐したのが坂牛直太郎だったのである。入船に坂牛邸と並んで上田寿久邸が建っていたのは偶然ではない。隣り合って暮らす必然がそこにはあったのである。 |
| 坂牛邸玄関前で。前列右から四人目が坂牛祐直。後列左が坂牛直太郎。前列左から二人目が直太郎の妻・スマ。スマに抱かれているのが現在の坂牛邸主・坂牛正志氏。 |
| 旧坂別邸が全焼 「ラブレター」映画ロケ地 【小樽】 二十六日午前八時四十分ごろ、「旧坂(ばん)別邸」として小樽市の歴史的建造物に指定されている、同市見晴町一六、無職坂輝彦(八〇)方から出火し、木造二階建て延べ二百平方メートルと、敷地内の物置二十平方メートルを全焼した。けが人はなかった。 小樽署の調べによると、坂さんは一人暮らしで、「室内のまきストーブの上に洗濯ものを干し、電話で部屋を離れて戻ってくると、煙が上がっていた」と話しているという。 「旧坂別邸」は、歌志内市の炭鉱主だった坂さんの父・敏男さん(故人)が別邸として一九二七年(昭和二年)に建てた。アメリカ近代建築界の巨匠フランク・ロイド・ライトに師事した田上義也の設計。女優中山美穂さんが二役で主演した映画「Love Letter(ラブレター)」(九五年)の小樽に住む主人公の住宅としてロケ地になり、韓国などから観光客も訪れる人気スポットだった。 |
| この夕刊一面記事には「炎に包まれる旧坂別邸」の写真が付けられていた。燃えさかる田上義也の美しい建築作品の最後に、皆、声もない。この写真を撮影したのが西村和雄さんと聞いて、さらに悲しみが襲う。西村さんは旧坂別邸のはす向かいに建つ田上作品・旧瀬川邸の主なのだから。小樽に残る田上建築は、これで三軒あまりになってしまった。 |
| ※ 文章作成については、坂牛正志氏、田上義也記念室の皆さまの貴重なアドバイスをいただきました。この場をかりて深く感謝いたします。上記の写真二枚も、記念室にあった資料をデジカメ撮影させていただいたものです。 |
| ※ 小樽に残る田上建築の文章中でふれました「樽新の坂牛君」=坂牛祐直(天民)については、後日、もう少し研究を積み重ねてから書きたいと思います。「坂牛祐直」の名は、啄木の明治44年日記にもう一度顔を出します。日記最後の住所録(北海道関係部分)に、当時の小樽新聞社社長・上田重良などと一緒に「札幌区北七、西四ノ一 坂牛祐直」も入っているのです。明治44年といえば、もう死の前年。すでに「一握の砂」は発表され、北海道の記憶は遠い過去になりつつあるようにもみえるのですが、そんな中でこれだけ小樽新聞関係の名が入っていることには少し驚きます。啄木と小樽の関係は、明治40年の日報社のごたごたばかりがクローズアップされますが、そうではない、東京に帰った後からも続いていた小樽というものがあるのかもしれません。(第12号編集後記) |