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![]() 九月の札幌 (三) |
103年の歴史に幕 札幌西武が閉店 札幌西武(札幌市中央区北4西3)は30日、最後の営業を終えて閉店した。大勢の買い物客に見守られ、前身の老舗百貨店・五番舘時代から数えて103年の歴史に幕を下ろした。 閉店時刻を25分すぎた午後8時25分に最後の客が退店し、従業員が正面玄関に整列。馬場達也店長が「長い間のご愛顧ありがとうございました」とあいさつするとシャッターが下ろされ、集まった約500人の市民から拍手が送られた。 (北海道新聞 2009年10月1日) 札幌西武は明治39年(1906年)に開業した五番舘が前身。昭和57年、西武百貨店と業務提携。平成2年に「五番舘西武」と改称していた。北海道に戻ってきた当時(17年前)、五番館(相変わらず私たちは「五番館」と呼んでいた)に行くと、西武デパートの店が全部コンパクトに揃っているので、こりゃあ便利!さすが五番館!とたいそう喜んだものだ。そんな「五番館」が閉店とは… ほんとに、今、デパートって、儲からないのね。 明治39年の創業。翌年の明治40年9月、函館を焼け出されて札幌駅に降り立つことになる石川啄木も、この「五番館」を描いています。 改札口から広場に出ると、私は一寸立停つて見たい様に思つた。道幅の莫迦に広い停車場通りの、両側のアカシヤの街?(なみき)は、蕭条(せうでう)たる秋の雨に遠く/\煙つてゐる。其下を往来(ゆきき)する人の歩みは皆静かだ。男も女もしめやかな恋を抱いて歩いてる様に見える。蛇目の傘をさした若い女の紫の袴が、その周匝(あたり)の風物としつくり調和してゐた。傘をさす程の雨でもなかつた。 『この逵(とほり)は僕等がアカシヤ街と呼ぶのだ。彼処(あそこ)に大きい煉瓦造りが見える。あれは五号館といふのだ。……奈何(どう)だ、気に入らないかね?』 『好い! 何時(いつ)までも住んでゐたい――』 実際私は然う思つた。 (石川啄木「札幌」) |
「五号館」という記憶ちがいがご愛敬。 もともとは「札幌興農園」という農具や種苗の店でした。札幌に電話が開通した当初、番号に一けたの五番が与えられた。ここから、横浜居留地の「何番館」という言い方にならい「五番舘」と名づけられたといいます。 この「札幌興農園」の、さらに前身は「興農園支店」(本店は「東京興農園」)。ここの書籍雑誌部が発行していた「興農雑誌」は、日本のカタログ(通信販売)商法の先駆けでもあり、また、当時の最新メディア(月刊誌)を通しての農民啓発を試みた点でも大変画期的な存在ではありました。当時、花巻農学校教師だった宮沢賢治はもちろんこの「興農雑誌」を購読しています。 羅須地人協会時代の花壇設計メモには札幌の種苗店をリストアップした一枚があり、中でも「札幌停車場前 札幌興農園」と「札幌市南二条西十三丁目 札幌第一農園」の二店には二重丸が振ってあったりもします。(おそらく通信販売を利用していたのでしょう) ちなみに、この二重丸のもう一店、「札幌第一農園」の建物設計は田上義也。もうとっくに失われていますが、このカッコいい建築、一度でいいから目にしたかった。子どもだった自分が悔やまれます。なんで、子どもだったんだ… |
札幌駅の地下にあったステーション・デパートでバヤリースの冷たいジュースを飲んで(頭の中がキーン)、五番館でシューマイとかバナナを買って(なぜかシューマイがお気に入り)、植物園で一日遊んでいた夏の記憶が何故か六十近くになった今でも残る。私も、思い出を語る、フツーの老人になった。 |