「綱島梁川氏を弔ふ《の文今日にて了る。多少の反響ありたるものの如し。梁川氏令弟より過日弔辞を送りたるに対し礼状来る。
午前北門社にゆき、村上社長に逢ひて退社の事を確定し、編輯局に暇乞す。帰途野口君を訪へるに、小樽日報主筆たる岩泉江東に対し大に上満あるものの如し、宿に入れば、西堀君園田君を伴ひ来りて待てり。園田君は五尺八寸の大兵、敦厚の相皃にして、其空知より持ち来れる林檎はいと味よかりき。
社の方より給料まだ出来ざれど、西堀君に立かへて貰って小樽に向ふこととせり。朝来の雨遠雷の声を交へていや更に降りつのりて、窓前の秋草蕭条たり。滞札僅かに十四日、別れむとする木立の都の雨は予をして感ぜしむること多し。
午后四時十分諸友に送られて俥を飛ばし、滊車に乗る。雨中の石狩平野は趣味殊に深し、銭函をすぎて千丈の崖下を走る、海水渺満として一波なく、潮みちなば車をひたさむかと思はる。海を見て札幌を忘れぬ。
なつかしき友の多き函館の裏浜を思出でて、それこれと過ぎし日を数へゆくうちに中央小樽に着す。向井君の四畳半にて傾けし冷酒の別盃、酔未ださめず、姉が家に入れば母あり妻子あり妹あり、京子の顔を見て、札幌をも函館をも忘れはてて楽しく晩餐を認めたり。
夜義兄と麦酒をくみ、又札幌なる諸友へ手紙認む。「梁川を弔ふ《の文を故人の令弟建部氏へ送る。
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この日朝来れる岩崎君のいと長き文に吉野君の近状を詳細にかきこされたり。習志野に病める令弟危篤の電報に接して帰国せむとして果さず、(国より義兄なる人来しため)死去の電報にて再び帰国せむとし、将に家を発せむとする時、蘇生の電報あり、兎も角も行きて逢はむとその旨打電せしに、大丈夫来るなとの返電、ありしといふ。運命友を弄せるなり、願くは向後の幸福友の上に多からむことを。
※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人