九月十三日


 

 多事なりし日、

 午前十時。新川町に大塚信吾君を訪ふて牛乳を呑むの約あり、岩崎並木二君と共にゆけり、吉野君は細君の産気づきたる様子故共にゆかれずとの手紙おこせり、

 牛舎の二階なる牧草室の一隅なる大塚君の書斎は誠に心地よかりき、主客礼を知らず、相語るに腹蔵なし、下より牛の唸る声し、あたりには枯草の香充ち満ちたり。紺青色の牛乳の瓶は算を乱して、其上に高窓よりさし入る日光の映じたる。凡ては外国の小説の中にある様なる心地したり。正午辞し去る、

 昼食すまして上取敢心配なれば吉野君の細君の様子見にゆげば、今苦しみの真最中なりといふ、驚きて校長の家の暇乞門口にすまし、馳けかへりて老母に手伝に行って貰ふこととせり、予は行李の準備などす、

 三時頃母かへり、男児生れ、至極の安産たりといふ。折柄並木君来り、吉野君来る、早速馳せてお祝にゆき、生れたる児を見ればいと安らかに眠れり、鹿子百合の瓶もちゆきて細君の枕頭に置けり。吉野君の第二子なり、浩介、卓爾、春樹の三つの吊を撰んで新らしき児のために吉野君に捧げぬ。岩崎君も急報に接して来り、祝盃をあげ帰りて並木岩崎大塚三君と晩餐を共にし、停車場に向へり、家族は数日の後小樽迄ゆきて予よりのたよりを待つ筈にて、この家は畳建具そのままに並木君一家にて引受くる事とし十五金をえたり、後の事は諸友に万事托しぬ、出立の一時間前東京なる与謝野氏より出京を促がす手紙来れり

 停車場に送りくれたるは大塚岩崎並木、小林茂、松坂の諸君にして節子も亦妹と共に来りぬ。

 大塚君は一等切符二枚買ひて亀田まで送りくれぬ。

 車中は満員にて窮屈この上なし、函館の燈火漸やく見えずなる時、云ひしらぬ涙を催しぬ、

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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