啄木散華
―北海同時代の回顧録―
沢田 信太郎
九. 障子を売り畳を売る
啄木が釧路に赴任するに当って、私に約束したことは二つあった。それは、出来る丈早く家族を釧路に呼び寄せることと、月々の生活費として必ず拾円以上を送金すると云ふことであった。そして当分の間御面倒をお願ひすると云はれて、私は責任を以て家族の生活を護ることを引受けた。
一月二十六日その日は日曜であった。午後久しぶりに花園町の留守宅を訪問すると、老母堂も節子夫人もお京ちゃんも皆健在であった。併し上り框に建てゝあった二枚の障子が取払はれて、表の風が吹き通しになってゐた。驚いて見回はすと奥の六畳間との境に建てゝあった四枚の襖も外づしてある。此のガランとした空家同然の処に、行火と火鉢を擁して親子三人が寒々と身を寄せ、厳冬の北風に吹き曝らしになって居る。一体是はどうした訳かと、挨拶も忘れて尋ねかけると、実は金が来ない為めに今朝余儀なく道具屋に売払って了ったと老母堂が答へる。夫人は下を向いて眼に一ぱい涙をためて居る。私は余りのことに咄嗟に慰めの言葉も出なかった。尚ほよく聴くと、到底家賃も払へぬから明日近所の星川と云ふ家に室借りをすることに決め、畳も売ってあるのだが、今晩だけ道具屋から借りてるのだと云ふ。愈々驚いた。そこで色色と慰め励まして今後のことを相談して帰ったが、寒さに慄へる母子の哀れな姿と、何一つ目星しい家具のない窮乏の住居を眺め、他ごとならず陰惨の気に打たれた当時の記憶は、マザ/\と残って居る。
其翌日啄木の家族は、花園町十四番地の星川丑七と云ふ興業師(?)の家の一室に越して行った。茲に落ちついてからも約一ケ月間、釧路の啄木から一銭の送金もなく、家財売却の金も大方は使ひ果たし、終に夫人はお京ちゃんをおんぶして、二日置き三日置き位に私の宅を訪問しては、私の母から米や木炭や漬物などを借りて行くやうになった。其内に益々窮迫の度が劇しくなって、母堂だけ姉婿の山本千三郎方(岩見沢駅長)へ身を寄せて行って了った。其後の夫人と愛児の二人きりの生活は、何とも云へぬ程無残なものであった。寝るにも起きるにも着た切り雀は止むを得ないとして、未だ二十二の若い夫人が、幾日も櫛を入れない油気の脱けた髪を額から頬に垂れて、火鉢もない八畳間に七輪に僅かの炭火を起して、京ちゃんを膝に抱いたまゝ悄然としてゐた姿などは、盖し啄木と雖も想像しなかったであらうと思ふ。私が前に述べた鉄道視察団一行に加はって、釧路に啄木と会見した時、真先きに持ち出したのは此の家族呼び寄せの問題で、彼も遠からず実行することを誓って呉れたのであったが、二月が過ぎ三月を迎へても却々実現しないので、私からも又夫人からも矢継早やに督促の手紙を出し、尚ほ「小樽日報」の職工長をしてゐた高橋が釧路に行くと聞いて、之に膝詰め談判を依頼してやると、軈て高橋によって齎らされた啄木からの返事は、左のやうなものであった。
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昨夜高橋君の不意討に逢ひ驚喜仕候、其後当方よりトンと御無沙汰仕、夙忙又夙忙、釧路は狭い丈けに小事故頻々として殆ど忙殺せられんと致候、妹共にも逢はざる事既に十日、但しこの度の御伝言だけは万障を繰合せても必ず伝へ可申候、呵々。
新機械活字等二十二日入港の雲海丸にて着荷の筈に候へば遅くも四月十日頃より紙面拡張の運びと可相成、秘かに喜び居候。
偖家族共所置の件兄の御配慮多謝、多謝、小生も一日も早くと存じ居候へど、佐藤国司君の方で家をどうかして呉れねば、一軒の貸家さへなき当町の事とて、何とも致方なく、四月中句頃までには必ず何とか出来る事と存居候、一方野辺地の父も呼び寄せねばならず、あれや、これや密かに焦慮罷在候、それ迄老母妻子の方は何分よろしく御世話被下度願上候。
余は後便に譲る。
十九日の夜
啄木
天峰大兄
侍 史
当地新聞記者倶楽部を三千円の予算にて建築する事に決定致し候 |
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私は之に対して、老母と妻子をよろしく頼むと云はれても、送金の約束さへ実行されないやうでは、到底責任は採られないと、押し返して強硬な抗議をしてやったが、彼は終に何とも答へなかった。併し彼の苦しんで居たことは充分私には分かってゐた。一夜でも「紅い灯を潜ぐって、妹共に逢はないでは」済まされぬ男になってる彼としては、たとへ「野辺地の父に小樽へ四十日も一文も送金せぬとは怪しからぬ」と叱られても、之を実行する余裕を有たなかった事は当然であり、当時の生活は、新聞を作ることと、女に会ふ事以外に何の感興も有たなかったと云ふのは真実のやうである。
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)
底本:回想の石川啄木 第8巻
岩城之徳編 八木書店
1967(昭和42)年6月20日発行
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入力:新谷保人
2007年1月27日公開
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