昨朝の初雪
 
石川 啄木
 
 
 名にし負ふ蝦夷(えぞ)が島根の紅葉時(もみぢどき)も老け初めて、朝な/\に顔洗ふ水の冷たさ、井戸端に散り布(し)く落葉に霜重くて、於古発(おこばち)川の濁水もどうやら流れゆく秋の声爽かになりし此頃の天候、一昨日よりメッキリと寒さ募りて、冬衣(ふゆぎ)の支度出来ぬ人は肩をすぼめて水鼻垂らす不風流も演じけらし。寒い/\と喞(かこ)ちながら寝入りし其夜は明けて、雪が/\と子供の騒ぐ声に目をさませる。昨日の朝楊子くはえて障子細目に開け見れば、成程白いものチラ/\と街ゆく人の背を打ちて、黒綾の被布(コート)に焦茶の肩掛(ショール)昨日よりは殊更目に立ちて見えぬ。道路(みち)にはまだ流石(さすが)に積る程でもなけれど、四方(よも)の山々は紅葉と雪のだんだら染、内地では見られぬ景色と見惚れしが、由来風流は寒いものと寝巻姿の襟を押へて逃げ込み、斑ら(まだら)の雪に兎の足跡追ふて今朝猟夫(かりうど)の山路に入りつらむなど想ひつづけぬ。編輯局も昨日よりは筆の暇々大火鉢の傍賑はひて、昼頃の大霙(おほみぞれ)に窓の目貼りを建議したる人もありし。
 
 
(小樽日報 明治40年10月27日・第6号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版

 

  入力:新谷保人
  2003年10月27日公開

 
 

 

 明治40年の9月、小樽にやって来た石川啄木が「小樽日報」の新聞記者をしていたというのはかなり有名な話ですが、その「小樽日報」で、実際にどんな新聞記者でどんな新聞記事を書いていたのか…ということはあまりよく知られていません。

  かの年のかの新聞の
  初雪の記事を書きしは
  我なりしかな

 今日が、その「初雪」記事の載った「小樽日報/明治40年10月27日・第6号」が発行された日です。当時、啄木22歳。10月15日に創刊されたばかりの「小樽日報」で、「三面」(現在の「社会・芸能・文化欄」みたいな感じでしょうか…)を担当していました。ちなみに、三面のチーフは童謡「赤い靴」の作者としても有名な野口雨情です。その野口雨情にして、この時25歳。いかに「小樽日報」が出来立ての新興勢力であったかがうかがえます。
 啄木の働きぶりはなかなか凄い。例えば、この27日の第6号では、「昨朝の初雪」「小樽区長と教育」「一家三人の入獄」の3本の記事を同時に書いています。日記を中断し(11月の日記はほとんど空白…)、全精力を記事の執筆にあてている様には何か胸を打つものがありました。もっともっと新聞記者・啄木の全容発掘が望まれるところです。
 というわけで、スワン社も「小樽のかたみ」の青空化に着手することにしました。挨拶代わりの「昨朝の初雪」スワン社10月27日号外です。(実際の2003年の今朝は秋晴れの素晴らしい一日です。家でパソコンやっているのがもったいないくらいの…) おまけの「小樽区長と教育」は、啄木が図書館(!)を論じているという空前絶後の文章でありましてスワン社としてはこれを見過ごすことはできないわけなのであります。当然のこと、即「青空」でした。 <2003.10.27/新谷>