底本:石川啄木全集 第8巻 筑摩書房 1979(昭和54)年1月30日初版 |
入力:新谷保人 2003年10月27日公開 |
明治40年の9月、小樽にやって来た石川啄木が「小樽日報」の新聞記者をしていたというのはかなり有名な話ですが、その「小樽日報」で、実際にどんな新聞記者でどんな新聞記事を書いていたのか…ということはあまりよく知られていません。 かの年のかの新聞の 初雪の記事を書きしは 我なりしかな 今日が、その「初雪」記事の載った「小樽日報/明治40年10月27日・第6号」が発行された日です。当時、啄木22歳。10月15日に創刊されたばかりの「小樽日報」で、「三面」(現在の「社会・芸能・文化欄」みたいな感じでしょうか…)を担当していました。ちなみに、三面のチーフは童謡「赤い靴」の作者としても有名な野口雨情です。その野口雨情にして、この時25歳。いかに「小樽日報」が出来立ての新興勢力であったかがうかがえます。 啄木の働きぶりはなかなか凄い。例えば、この27日の第6号では、「昨朝の初雪」「小樽区長と教育」「一家三人の入獄」の3本の記事を同時に書いています。日記を中断し(11月の日記はほとんど空白…)、全精力を記事の執筆にあてている様には何か胸を打つものがありました。もっともっと新聞記者・啄木の全容発掘が望まれるところです。 というわけで、スワン社も「小樽のかたみ」の青空化に着手することにしました。挨拶代わりの「昨朝の初雪」スワン社10月27日号外です。(実際の2003年の今朝は秋晴れの素晴らしい一日です。家でパソコンやっているのがもったいないくらいの…) おまけの「小樽区長と教育」は、啄木が図書館(!)を論じているという空前絶後の文章でありましてスワン社としてはこれを見過ごすことはできないわけなのであります。当然のこと、即「青空」でした。 <2003.10.27/新谷> |