スワン社HP Northern songs 2002年1月2日号

 
 
Go!Go!AKIRA!
 
新谷 保人
 

 音楽評論家・萩原健太の言葉。去年のニューヨーク・国際貿易センター・テロの頃のコメントです。

「大滝(詠一)さんって、ほんと、働かない人なんですよ。その大滝さんが、今年の終わりになって急にラジオの仕事、2本も同時に始めた… 私、心配です。大滝さんが働き始めると、なにか世界情勢が大きく動くんですよね。」

 そうですか…大滝さんの仕業だったんですね(笑)

 萩原健太にとっての「ゴーゴーナイアガラ」大滝詠一氏ではないけれど、私にも、そういう人が何人かいます。例えば「はせがわくんきらいや」長谷川集平。通勤途中の電車の中吊り広告やポスターにこの人の特徴あるイラストを発見すると、ああこの本は読んどこう…とか、ああこの事件は私も注目していたんだよ…とか、なにかしらの「ああ」という納得がある。時代の節目節目に外れないで一応ちゃんと付いて行けているという実感があるんですね。

 前田日明もそういう一人です。前田日明、知ってる人には「当たり前田のクラッカー」ですけれど、知らない人はもうほんとに壊滅的に知らないと思いますので、マイクロソフトのニュースに付いていた人名録をコピーしておきます。

◆前田日明(まえだ・あきら) 1959年(昭和34年)1月24日生まれ、大阪市出身。77年に新日本プロレスに入門し、翌78年8月の山本小鉄戦でデビュー。88年には格闘色の強いUWFを旗揚げし、UWF解散後の91年にリングスを設立した。

 と、こんな人なんです。ちなみに、私(わたし)的には、1988年は日本初の学校図書館ネットワーク専門誌『SWAN』を創刊した年。1991年がネットワークの合同データベース「SWAN/MARC」計画がスタートした年です。ネットワークのそれぞれの段階の最盛期。翌1992年10月は小樽に移住してきた年でもあり、具体的なネットワークの目標に向かって、貪欲にひとつひとつ獲物を取り続けていた10年間という感じでした。
 で、履歴では、どうしても前田日明のピーク時とかスタート時の日付でその実績が書かれてしまいますけれど、物事が全て成功裡に終わるわけではない。人生ですから、師との別れがあったり、仲間の裏切りがあったりするわけです。私が、何故か前田が気になるのは、好調時だけではない、前田日明の絶不調時の浮き沈みの波も、なんか自分の人生の浮き沈みの波とカブっているような気がするのですね。例えば、前田が現役を引退するとかしないとか迷っていた頃、私も埼玉県の学校図書館ネットワークに小樽から協力参加する無理にちょっと疲れていた頃だった…とか。埼玉に残してきたネットワーク思想と、その後の小樽でのネットワーク思想の進化とのギャップにちょっと苦慮していた頃だった…とか。
 まあ、カリスマということなのだと思います。ミーハーのファンですから勝手にアイドルの人生に自分の人生をなぞらえているにすぎませんけれど。前田日明の人生と私の人生には本当は何の関係もない。ただ、そこに何らかの時代的な「符丁」を読みとりたい…という私の態度の問題があるだけなのですが。そうわかった上で、「前田日明」という物語を楽しみたいということなんです。

 そんな「前田日明」物語の最新号が、2001年も暮れになって届きました。

リングス、2・15横浜で解散 (2001 年 12月 28日/MSNニュース)
リングス前田日明社長(42)が27日、記者会見を開き、来年2月15日の横浜大会(横浜文化体育館)を最後に、団体を清算すると発表した。日本人主力選手の相次ぐ離脱や大物外国人選手のPRIDEへの大量流出、衛星放送のWOWOWとの契約が、3月いっぱいで満了することなど悪条件が重なり、経営が行き詰まった。所属5選手の去就など、今後のことはすべて未定。年明けにも再会見が予定される。
総合格闘技団体の草分け的存在だったリングスが、91年5月の旗揚げから11年で消滅する。27日、前田社長が「来年2月15日をもちまして組織を清算し、活動休止することになりました」と発表した。「世界進出を目指し、頑張ってきましたが力足らずこういう結果になりました。責任はひとえに自分にあります」とうつむいた。前田社長は約2分間、具体的な解散理由には触れず、一方的にこう話し、会見を打ち切った。
ここ数年、リングスは激しい逆風にさらされてきた。所属選手を抱えずに各方面から有望選手を招へいする形式で急成長を遂げたPRIDEに、強豪選手を引き抜かれた。今年2月のKOKトーナメントで優勝したノゲイラまで去っていった。5月には山本、成瀬、田村、坂田の主力選手が続々と退団した。
8月には苦境打開の策として新日本との交流戦構想が持ち上がったが、交渉に訪れた前田社長自身が、マスコミとトラブルを起こしたことなどで、立ち消え。さらに設立時からスポンサーとして支援を受けてきたWOWOWから、来年度以降の契約更新を拒まれたことが決定打となった。
前田社長を含めスタッフ6人、選手5人の去就などは現時点で決まっていない。会社組織だけでなく、東京・渋谷の事務所、横浜市の道場と寮がどうなるかもわからないという。ただし、ロシアやオランダなど9カ国にある支部は現在も日本の組織の傘下にはないため、独立団体として各国で存続する見通しだ。

 「ここ数年、リングスは激しい逆風にさらされてきた…」か。そうなんだよな、私も、ここ数年、激しい逆風にさらされている…(笑)

 まあ、私がどんなに激しい逆風にさらされているか…は、見苦しいからここには書けませんが。(←書くな!そんなもん!眼が腐る…)

 ただ、前田の、これからの行く末、ちょっと心配ではありますね。というのも、引退した1999年以降の「前田日明」の言論って、わりと気に入っていたのです。プロレス雑誌という枠を外れて、じつに意外な場所、意外な時に出会うようになりました。例えば、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するぞ!」運動の絡みでいろんな団体のホームページを見ていると、突然、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」のホームページで「前田日明」に出くわしたりします。

前田日明氏 ビデオ発言(要旨)
―おじさんが北で行方不明ということですね。
前田 小さい頃遊んでもらったおじさんです。父親世代の人たちでは、70年代の終わり頃に、「向こうで実はこういう生活をしているらしいよ。下っ端の人間はヒエかアワしか食えない」というのが話題になった。80年代になると実際に行って見て、「わあ、なんだこれは」という。ですが、こちらで人間的な嵯鉄を味わうと、そんな所でも帰りたくなる。
―北が大変なことがわかっても、本人の生命がかかっているのでそれを証言できない。
前田 日本の戦後教育はこと自由さを教えることについてはあきれるくらいだった。そういうところで染まった人が北の主体思想をやっているところとは合わない。あげくのはてに中朝国境地帯のような辺境の地に飛ばされる。へたすると強制収容所、もっとひどいと、いろいろでっちあげられて処刑されたりする。ちょっとそれは複雑な気持ちでね。
 私のおじいさんは李朝最末期の軍人で抗日ゲリラに参加して、捕まって逃げたりして、日本に来たんですが、北朝鮮好きじやなかったみたいです。韓国や北朝鮮だったら同じ血の流れた人間に対して、日本人が俺達にやっているよりもっとひどいことをするだろうと言っていた。
―北朝鮮の政権については。
前田 中朝国境地帯もひどい話じやないですか。北朝鮮を脱出した7歳や10歳の子どもが凍った地面に頭をすりつけ助けてくださいと言っているという。それでも中国の公安当局が北朝鮮にむりやり引き渡しているんでしょ。在日の一世二世がなぜこういうことを黙って見ていられるのか、よく分からないです。
―「在日」に対しては
前田 朝鮮学校作ったといっても、この国にいる「在日」が金を出し合って作ったんじやないですか。自分たちは独立独歩で生きてきたんですよ。「在日」は今、消極的で、中途半端ですよ。日本国籍とったら新井将敬みたいに日本の国政にかかわらなけりやだめですよ。先祖代々の名前を誇りにして韓国籍や北朝鮮籍でもいい。だったら韓国の国政にかかわらなきやだめですよ。
 戦前は併合で日本人としてきた。そして、子孫が恥ずかしいい思いをしないようにと日本人以上に危ない最前線に行けと言われた。私の親戚にも特攻隊員がいた。しかし戦後、日本の都合で「外国人だ。帰れ」となっても、李承晩が受け入れなくて、大村の収容所に入れられた。
 「在日」は、こんな仕打ちをされてもニコニコしている。「在日」はお人よしだ。みな天国にいけますよ。自分たちは日・韓・朝に借りはないんです。「在日」であることに誇りを持たないといけない。一つにまとまらなければだめですよ。
            ***************
(文責:佐倉)小川共同代表、宋、金、佐倉の四運営委員が8月13日、在日三世の元プロレスラ―前田日明氏を訪ねました。病気加療中の御尊父の容態が悪いにもかかわらず、氏は1時間15分も時間をさいてくれました。 (
『カルメギ』 No.29 より引用)

 この出会いには、ちょっとびっくりしましたね。「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」というのは、名著『朝鮮戦争』(←これこそほんまもんの血が滲む名著です)の著者・萩原遼氏や学者の小川晴久氏たちが主宰している民間団体です。北朝鮮の「日本人拉致」について考えてゆくと、どうしても半世紀前の「朝鮮戦争」〜「帰国事業」のところまでは掘り下げて考えてゆかなくてはならなくなります。会誌の『カルメギ』は、北朝鮮について何か言いたいのなら、これを読まないでものを言ってはいけない…という雑誌ですが、まさか、ここで「前田日明」に会うとは思いませんでした。
 カムアウトしたという噂は聞いていたのです。が、なんとなく、マスコミ有名人だから、『文芸春秋』とか『プレイボーイ』とか一般誌の目立つようなところで、それは行われたのだろう…とたかをくくっていました。(まあ、プロレス雑誌ということはないとは思ったが) でも、こんなに、ほんまもんの場所で、ほんまもんのカミングアウトをやっていたとは思いませんでしたね。感動した。

 単純な一ファンとしては、今後の前田日明はどうなって行くのだろう?と心配です。今後の足しになるんだったら2月15日の横浜文化体育館に行ってもいいぞ…くらいには思ってる。Tシャツの一枚も買ってもいいぞ…くらいには。でも、まあ、そういう反面、ファンは薄情でもあるから、これで久しぶりに「怖い前田」が見られるぞ!という快哉なんかもあったりするんですね。特に今回は、現役選手を退いた「その後の前田」であるわけですから、私は殊の外注目しています。過去の因縁が因縁だけに、決して、「猪木」のような老醜だけは見せられない…という縛りがあるだろう。いや、もう、「猪木」や「力道山」がどうこうじゃない…そんなプロレス社会の狭い了見を越えたものが「前田日明」だったではないか…とか。

 この、「前田は」「前田が」って状態、ちょっと気分が高揚しますね。

 正月テレビの中では、子どもみたいな大人たちが子どもといっしょになって騒いでいる。あいつ、あれで、前田と同じ43歳なんだって…
 
 

 
 
新年おめでとうございます 2002年元旦


■『カルメギ』ホームページはこちらです。前田のインタビュー・ビデオは、帰国事業40周年を記念して「いま振り返ろう!!40年前を 北朝鮮に渡った在日朝鮮人9万人余と日本人妻6千人を そして思い起こそう!この人たちの現在を」と銘打たれて行われた映画と講演の集まりで、映画『キューポラのある街』に続いて上映されたものです。

■吉永小百合主演の『キューポラのある街』。埼玉県川口市を舞台にしたこの映画を、私もビデオテープを引っぱり出してきてはよく観ます。懐かしい…とは思わない。つい昨日の私たち。思い起こすのは、つい昨日の私です。川が流れていて、木造バラックの長屋があって、工場があって、中学校のグランドがあって、職員室にライオンというあだ名の教師がいて… 私は、吉永小百合が演じた「ジュン」という造形は、ある意味、戦後の映画やテレビドラマが生み出したヒロイン像の中でも、その頂点に位置する造形ではないかと思うことがあります。(オードリー・ヘップバーンに勝てるとしたら、この「ジュン」だけだろう…) 「ジュン」と「たかゆき」の姉弟(きょうだい)。「ヨシエ」と「サンキチ」の姉弟。あそこへ還っていくのなら、あそこからリセットできるのならば俺はいつでもOKだよ…という想い、強烈にありますね。

■2月15日の横浜文化体育館よりも、こっちの方が先になるかもしれない。2月9〜10日か…
北朝鮮の人権と難民問題国際会議
スペースの関係で詳しく書けないので、興味がある方は、この「会議」専用特設ホームページをご覧ください。小川晴久氏、ノルベルト・フォラツェン氏、RENKの方々、横田滋氏…、今まで、さまざまな場所から発せられていた声がこうやって一堂に会する時代が来たことをたいへんうれしく思っています。

■前回の『Northern songs』でも書きましたけれど、けっこう真面目に「次の10年」を模索しています。できるものならば今までやってきた図書館の仕事と矛盾することなく、そこで学んだ知識や技術を、こういう、少しは人の役に立つような仕事につなげて行ければ…と考えるのですけど。なかなか学も体力も足りなくて。そんな、悶々とした大晦日に読んでいた宮部みゆきの『蒲生邸事件』(文春文庫)は、けっこう応えました。もっと努力しなければ…