啄木からの手紙
― 明治四十年十月 ―
 
 


215 十月二日小樽より 岩崎正宛

今日かはたれ時の薄暗がり時、駅夫に牽かせたる大八車を先立てゝ中央停車場の駅長官舎を出で、こゝ名も優に美しき花園町の、トある南部煎餅売る店に移り住みたる男女四人有之候、四人の一人は小生にてあとは母とせつ子と可愛き京ちやんに候、室は二階二間、六畳と四畳半にて何れも床の間あり、思ひしよりは心地よく候、貸家貸間払底の当地にてかゝる贅沢(小生にとりて)なる室を見つけ候ふは全たく天佑なるべく候、襖一重にて奥の隣座敷には咳払ひ厳めしき売ト者先生御本陣を構へられ候、されば此家の入口には

と記されたる大なる朴の木の看板かけられ居るは申す迄もなく、若し小生例の藪医者めいたる一張羅の紋付羽織きて此家より出つ入りつ致し候はゞ、近隣の人は多分姓名判断氏の新弟子とや評し候ひなむ、小生今迄随分様々な人間とも交り候ふ事の候へど、売ト先生と襖一重に住むなどは、天の配剤殆んど其妙を極めたる次第にて、神意付るべからず、ひたすら感恩仕候、
早速せつ子と共に買物に出かけて洋燈火鉢箒花瓶炭入など買うて参り候に、程なく雨ふり出で候、ふり出でたるは秋雨に候、聞ゆるものは隣室の咳払ひと淋しぎ雨の音のみに候、行李やら飯鉢やら布団やら洗面盥やら、雑然として堆かき室の中程少し取片附けて、小さからぬ火鉢に御存じの鉄瓶松風の音を立て候、明るき吊洋燈は青柳町にて求め候ひしのより立派に且つ派手に御座候、「わが家庭」といふ云ひ難く安けき満足は、今名残もなく小生の胸に充ち満ち居候、
夜廻りの金棒の響きこえ候、函館のより忙(セハ)しく候、総じて小樽は忙しき市に候、札幌に「都」の字を用ゐ候ふ小生は、この小樽をば「市」と呼ぶの適当なるを覚え侯、
サテ兄の御ハガキと廻送し下されたる郵便物今朝拝見致候、それ前の長き/\御手紙は札幌を立つ日の朝に拝しまゐらせ候ひしが、詳しく御報らせ下され候ふ吉野兄の事、何と申す言葉も無之候、誠に何とも申し様なく候、御察し下され度候、同君の留守宅をば小生の分と二人前御見舞下され度候、浩介君健かなりや否や、奥さんの産後何ともなかりしや、小生は実際毎日の様に思出しては空想致居候、現在の小生には、故郷よりも何処よりも函館が恋しく候
木立の都秋風の都美しき恋の沢山ありさうなる都、詩人の住むべき都なる札幌を見捨て候ふ事、小生にとりては実に由々敷損害に有之候、然しこの事は何卒御追究下さる間敷候、北門新報の校正子よりは小樽日報の遊軍の方月給が大枚五両の相違に候、しかのみならず社長も主筆もどんな訳か小生の言に耳を傾け一二ケ月の後には報酬もあげるなどと申居候、悲しき事に候はずや、然し小生をして小樽に入らしめたるは別に二つの原因が有之候、一つは此度の社が創業時代――万事自由にして然も無限の活動を予期しうべき時代たる事に候、今一つは札幌に居て遂に松岡輩や亡国の髯を蓄へたる向井君らと朝夕を共にする苦痛――我と我が魂の腐蝕しゆくを感ずる不快の境遇――に堪へ難かりし事に候、向井君は好人物には相違なく侯へど、畢竟ずるに時代の滓に候、最も浅薄なる自暴自棄者に候、一切の勇気を消耗し尽したる人に候、詮じつむれば〔胸〕中無一物の人に候、小生は衷心より向井君に同情致居候へど、然し一度共に語れば何といふ理由なしに一種の不快を禁ずる能はず候、この不快は然し、要するに人生の最も悲惨なる「平凡なる悲劇」に対し、小生の精神が起す猛烈の反抗に外ならず候
社は新築の大家屋にて、万事整頓致居、編輯局の立派なる事本道中一番なる由に候、活字の如きも新らしきもの許り三十万本も有之、六号だけにて九千本と申候へば、資本の潤沢にして景気よき事御察し下され度候、資本主は山県勇三郎氏にて、同氏の令弟なる当地中村組の中村定三郎氏の手許より請求次第金はいくらでも出る次第に候、実際の理事者にして社長の名義を出し居るは白石義郎といふ道会議員にて、財産もあり又釧路新聞をも持ち居る人に候、年に一万位は捨ててもよいといふ道楽半分の新聞とは面白く候はずや、野口雨情君も入社せられ侯、至極温厚にして、謙遜家としては日本一なるべく、天下一の好人物と保証仕候、
初号は十五日に(二十頁以上)発行、同日披露会をひらき、一週間休刊、廿三日より毎日六頁にして出す筈に候、鉄道の無賃乗車券下付になり候はゞ、時々函館に遊びにまゐるべく侯、
八九日頃までに初号の分何卒玉稿御恵み下され度願上候、この件並木君小林君等へもよろしく願上候、沢田氏御病気御平癒に候はゞ、これ又何卒よろしく御取入り被下度願上候、
社に於ける小生の地位は頗る好望に候間、恥かし乍ら御安心被下度候
     ――――――――――――――――――――
宮崎君は十一月帰函の際小樽に三四日遊ぶべき旨本日手紙参り候、待ちこがれ居候、出来うる事ならその時一緒に函館へ遊びにまゐり度存居候
妻眠さうになり候故今夜はこれにて擱筆仕べく候、大島君は仰の如く都会に隠るべき人なるべく候、アノ人も矢張悲しく痛ましき人の一人たるを免れず候、
母君おこうちやん秀ちやん弘さんを初め沢田氏御夫人吉野君の奥さん並木君等へよろしく御鳳声被下度候、此方にて老母とせつ子よりよろしくと申出候、雨の音しきりに、京ちやん目をさまし候、草々
  四十年十月二日夜
                小樽にて 啄木拝
 正様 御もとへ

 


216 十月十三日小樽より 大島経男宛

 大島先生 御侍史
御なつかしき三日附の御葉書函館より廻送をうけて去る八日夕落手、うれしさ限りなく初めて心を安んじ申候、心を安んじ候と申さば、嘸(さぞ)かし何の故にかくも僭越の事を云ふにやと御不信も可有之候、サテ何より先きに書き初むべき乎、先づ/\ズツト遡りて恰度一月前の事より順々に申上べく侯、
天の火に焼かれたる函館の焼跡にはよい加減に見切りをつけ、札幌に乗り込むべき事は、八月中に差上げし手紙に記しまゐらせ候ひし様記憶致居候、九月になりてより向井君より手紙来り電報来り、頻りに促がされて、遂に十三日の夕七時、星黒き焼跡の臭ひ吹く秋風に送られて、私事短かゝりし青柳町百二十余日の生活を切上げ、飄然として一路北に向ひ、翌日アカシヤの街?(なみき)に秋雨蕭やかなる札幌には入り候ひき、不取敢北七条なる向井君の宿に腰を下し、翌日よりは月給十五円、北門新報の校正子に出世致し、家内共は私より遅れて十六日に函館を立ち、小樽の姉が許に当分厄介になりて、札幌にて貸家見つけ次第呼びよせる筈に相成候ひしが、函館の火は此処に迄影響して市中殆んど一軒の空家なく、札幌てふ美しく静かなる北の都に入りての初めての当惑は此事に候ひき、越えて十七八日の頃、並木君より手紙来て、大兄に宛てたる同君及び岩崎君の手紙共に「本人行先不明」と附箋されて帰りたる旨申越し候、其翌日は小生が函館出立の前日投函したる葉書矢張同様の附箋にて舞ひ戻り、二三日して、札幌着を御知らせしたる葉書亦同様の運命にて帰り来り候ひき、誰に問へども一向相解らず、さうかうする間に向井君の葉書も舞ひ戻り候、一切の情誼を自ら御拒み遊ばされ侯ふ大兄も願くは此際に於ける小生共の心中をば御諒察被下度候、
東京に御出なされたるには非ずやなどとも話合ひ候ひしも、何しろ行先不明とは無限に末広き扇の様にて、数知れぬ人の世の路々、何方と定むべき由もなかりしに侯、斯く申さば余りに世俗的な心配の仕様と御笑ひも可有之侯半乎、兎角するうちに只今の社へ口かゝり校正が天職でも無ければと早速承諾し、滞札僅か二週日にして、二十七日の夕、向井君の猫箱の如き四畳半にて汲みたる別盃の酔未だ醒めぬうちに此小樽には参り候、木立の都、秋風の郷、しめやかなる恋の沢山ありさうなる都、大いなる田舎町に似て物となく静かに住心地よき札幌に別れ候ふは、小生に於て決して楽しき事には無之候ひき、然も十五円の校正子より二十円の記者の方が、貧乏に倦み果てたる小生には好もしかりしに候、且つ小樽には家内共も居る事なり、又、予想外に気の合ひたる野口雨情君も共にといふ訳故、「俗悪の小樽」といふ代りに「活動の小樽」と呼ぶ事にしてこの悪泥の市に入り込みしに候、
問ひ合せ置きたる手紙の返事追々諸友より参り候ひしも、失礼乍ら大兄は依然として雲中の人に候ひき、一日に第一回の編輯会議を開き、二日に漸くこゝ花園町に人の家の二階二室借りて移り候ひしが、爾後本日に至るまで夙忙日夕を分たず、御葉書に雀躍してより既に五日、今日は/\が遂今日までこの手紙延引仕候次第に候、
大兄よ、願くは小生の厚かましき言葉のふし/〃\御寛恕下され度候、
御葉書にて御近況略承はり候、失礼乍ら悲しき思致候、田園の生活は大兄の所期と相去る百里千里かと察せられ候、噫、何と申してよかるべきか、大兄よ、願くは都会に御出下され度候、唯都会に御出下され度候、仮令厭なこと山々有之候共、願くは都会に御出下され度候、
世に己が故郷を慕はぬ人はなかるべく候、然し一度故郷に帰りて日を重ね月を重ね年を重ね候はゞ、必ずや再び旅の空が恋しかるべく候、自然は人間の故郷に候ふべし、人間のみの間に伍する凡百の不満と煩瑣とは、人をして自然を慕ふこと母の如くならしめずんば止まじ、然れども一度自然の懐に帰入して日を重ね月を重ぬるに従ひ、何人も或る煩悶を感ずるに至るべく候、こは自然若しくは自然の中に生活する比較的自然なる人間、乃至一切我以外のものに対する煩悶に非ずして、「閉塞せられたる我」が其閉塞を破らむとする心の反逆なるべく候、乃ち自発的のものにて如何に之を抑制するとも遂に其効なかるべく候、我無くば世に何物もなかるべし、我既に生けり、生ける以上は我既に有るなり、我既に在り、如何にして此我の我を閉塞し了り得べきや、
大兄よ、小生は理窟を云ふことは極めて下手に候、下手な理窟はやめに致候、唯願くは都会に御出遊ばされ度候、そして、人間なる私共をも友と御呼び下され度候、函館の埠頭にてお別れ致候時、風なき港の波をゆくら/\に行く艀舟の上、白の上衣着てうつむき給ひし大兄は、共同運輸丸に到り着くまで一度も私共の方をふり返り給はざりき、人に別れて悲しかりし事は幾度も有之候へど、あの時許り淋しかりし事は無之候、大兄よ、人は如何に一切と断たむとするも猶遂に空気には包まれ居るには侯はざるか、アノ時の事は御恨めしい様な気いたし候、私の申す事は多分御気に障る点多からむと恐縮致候、サテこれから少しまた私の万事申し上ぐべく候、
この度の社は山県勇三郎氏が、収支相償ふに至るまでは年に一万円づつは捨ててもよしといふ随分の大仕掛にて新たに起されたるものにて候、但し社主自身は別に関係せず道会議員にして釧路新聞の社主たる白石義郎氏が直接の経営者に御座候、別に政治上の機関といふでもなく、云はゞ道楽が六分でやるのだとは白石社長の言に候、社長は至極の好人物にて私如きさへ一点の不平無之候、以前は福島県選出の代議士に候ひし人に候、初号は明後十五日に十六頁にして出す筈にて、其準備のため随分目も廻し申候、編輯局は主筆岩泉江東外野口君、小生、他に四人にて現在は七人、まだ一名這入る筈に候が目下未定、小生初めは二十円の約束に候ひしが、社長何の見る所かありけむ三十か三十五枚出すやうにすると申居候、野口君は三面、小生は二面の主任とか編輯長とかいふイカメシイ名のついた椅子に据ゑらるゝ由に侯、現在は初号発刊まで臨時分担にて一同大車輪にやり居候、主筆に対しては同僚一同大不平あり、小生なども可愛がられるけれども其動物的な人相はイヤでたまらず、野口君と共に目下種々企画罷仕候、小生の理想は遠からず編輯局に一種異様なる共和政治を布く事に御座候、
只今二時の時計をきき候へば驚いて擱筆仕候、草々、
  明治四十年十月十三日夜

 


217 十月十四日小樽より 岩崎正宛

本日社にてなつかしともなつかしき兄の詩信に接し、三誦其深沈一味の愁調に心浄まるを覚え候、サテ兄は先づ御無事なる如し、賀々、
先日吉野兄釧路行の一件水泡に帰し、間もなく財産差押の報あり、驚愕為す所を知らず、出来うべきだけはと自分も歩き人にも頼み候ひしも、兎角金の事には天祐なき小生也、社の方も数日前一家を借りて移転した際畳建具買ひし其他のため前借の道ふさがり居り、苦心中、社の為め、一大決心をなす必要ありて札幌にゆきなどする程に一週間は過ぎ申候、如何になりし事にやと心配でたまらず何卒兄より至急御知らせ下され度侯、吉野兄へは気の毒で/\何といってやってよいやら、よろしく願上候、
サテ兄よ、小生が社に於る位置は目下何人も及ばず、白石社長は殆んど意外な位信用してくれ、小生の意見は直ちに実行さるゝといふ様に相成候、御安心被下度候、去る日曜日突然沢田兄の来訪に接し会議半日にして心に決する処あり共に札幌にゆき翌日かへりしが、本日社長来樽、万事決定、吾党の士は刃に血ぬらずして大勝利を得たり 乃ち沢田兄は我が社二面の編輯長となる事になり(但し、当分は三十五円……一ヶ月かニケ月の間)今夕電報を以て来任を促しやれり、現主筆以下四名は明日お免の宣告を受くべく、沢田兄来る迄は僕が総編輯 外に外交唯二人でやる筈、天下の大勢既に我が手中に入れり、小樽日報の死活は沢田兄と小生と二人の手心のみ、兎も角もこれ近来の吉報なるべし、今迄なぜ兄らに新聞を送らざりしか 答へて曰く、今迄の新聞は現主筆の方寸によつて作られたるものにて、恥かしくて人に見せられぬためなり、遠からず第二次注文のキカイ及び活字着次第六頁とし大改革をなす故その後は毎日送るべく候、尚六頁になれば、其二頁だけを市中だけに夕刊として発行する計画なり 市中の読者は日に二度づつ新事件の報道をうる訳なり 何と面白からずや 兎に角小生は今一日中殆んど一時間も暇なき迄種々なる活動をなしつつあり
右不取敢兄の義兄の件御報道迄
  十四日夜十二時               啄木
 正兄
  母上様姉上様こうちやん外皆様へよろしく

 


218 十月二十六日小樽より 宮崎大四郎宛

朝八時に出社、昼飯と夕飯は編輯局で喰ふ、世の中が馬鹿に急がしい、
天長節には一しよに一つ飲む事、待たるゝ/\、今夜当直一時頃でなければ帰れぬ
今朝初雪、紅葉と雪のダンダラ染は美しい、窓外霙の声あり
  二十六日夜十一時
              小樽日報社 石川啄木
 宮崎大四郎様

 
 
 
 

 
 
 
解説 傷心 ― 岩崎正 (新谷保人)

 おそらくは生涯妻をむかへじと
 わらひし友よ
 今もめとらず     (一握の砂)

 岩崎正(白鯨)は啄木と同年齢。十六歳の時に父に死に別れたため中学校を退き、函館郵便局の為替係として働いていました。啄木の中学退学の理由はカンニング事件で、岩崎の経済的理由での中学中退とはちがいますが、ともに学歴から離脱してしまった境遇には相感じるものがあったのではないでしょうか。
 岩崎白鯨の死も啄木とわずか数年の差。「おそらくは生涯妻をむかへじ」と自嘲した岩崎白鯨は、その言葉の通り、妻を娶ることもなく大正三年九月肺結核のためその薄幸の生涯を閉じます。そして、大正七年には吉野白村が、大正十一年には並木翡翠が天に召されてもいます。苜蓿社同人たちの辿った生涯を想うと本当に胸が痛みます。
 啄木だけでも東京で成功してよかった!と私は思いたい。そして、これら苜蓿社の友たちのさまざまな無念の想いを詠いあげた『一握の砂』こそが世に残ったことをさぞかし天国の皆は喜んだことでしょう。

岩崎正(1886〜1914) 筆名白鯨。琺瑯閣(ほうろうかく)とも称した。啄木の函館時代の友人で苜蓿社同人。そのころ函館郵便局為替係現業員として勤務していたが、歌才に秀でた人物で啄木もその影響を受けた。肺結核のため二十九歳で函館に没している。本巻に収めた書簡四九九・五〇二・五〇八は新資料で、現在市立函館図書館啄木文庫所蔵。
(石川啄木全集・第七巻/岩城之徳編「解題」より)